ココ・シャネルの人生・生い立ち・死因は?歴史とともに辿る
ココ・シャネルってどんな人?
シャネルの創設者であり、生涯 世界の代表的なファッションデザイナーであり続けた、ガブリエル・シャネル。
こんなにも世界中の女性を虜にするシャネルの魅力ってなんでしょう・・。
今日は「20世紀で最も影響力の大きいデザイナー」と呼ばれる彼女の人生を少し振り返ってみたいと思います
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ココシャネル物語、それは小さな帽子屋さんから始まりました
「ココ」という愛称を持つガブリエル・シャネル。
彼女がカンボン通り21番地に初めて帽子店「シャネル モード」をオープンさせたのは、1910年のこと。
その帽子店は小さなお店ではありましたが、当時の有名なフランスの女優たちがココのデザインする帽子をとても気に入りました。
「お洒落セレブ」の間で大人気となれば、瞬く間に口コミで評判が広まります。そしてココの名前が世に知られるように。
ガブリエルが、1910年に自身のブティックを開くことになったこの辺の経緯は、映画『ココ・アヴァン・シャネル』(Coco avant Chanel;主演 オドレイ・トトゥ 2009年)にも描かれています
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1912 ドーヴィルに2号店「ガブリエル・シャネル」で初のニットを販売
そして1912年、当時、高級リゾート地だったドーヴィルに2号店となる「ガブリエル・シャネル」をオープンさせました。
生涯愛し続けたとされる英国人実業家、アーサー・カペルの助言を受けて、帽子だけでなく衣類も取り扱うようになります。
その頃の時代背景は、というと・・
1910年代はまだ女性はドレスを着て日傘をさし、男性が興じるスポーツを、ただ「見る」だけの時代でした。
そんな中、ココシャネルは見るだけでは飽き足らず、恋人アーサーから借りたカーディガンやセーターをまとい、男性と一緒にスポーツを楽しんでいました。
髪はショートでこんがりと日に焼け、風貌も中身も他の女性とは一風 違ったココ。そんな彼女は、ドーヴィルの漁師や船乗りたちが着ていた着心地の良さそうなボーダーシャツに着目!着ていたのは、同時 男性の肌着用の素材だったジャージーのTシャツです。
「うん、あれなら、着心地よさそう・・🤔」
そして1913年、身体の動きを妨げない「女性のための着心地のよいニット」が生まれます!
そのジャージ素材を使って、ドレスやニットのブラウス、ニットスーツ、スポーツウェアの販売も始めました。この試みが当時の女性のライフスタイルに革命をもたらすきっかけになります。
1915〜 仏ビアリッツに初の「クチュールハウス」&「カンボン通り31番地」
そして1915年には、ココシャネルは、フランスのビアリッツという都市に初めての「クチュール ハウス」をオープンさせました。ここでオートクチュール コレクションを初めて作成します。↓
そこからオートクチュールデザイナーとしてのキャリアを積んでいくことになります。
とても順調にビジネスが進んでいますね。
↑ 初のCHANELブティック。上はフツーに銀行ですね。。今じゃ考えられない😏
そしてそして、1918年! 小さな帽子屋さんから8年経ったころ、あの有名な「カンボン通り31番地」にある建物を買い取って、ブティックを構えるまでになります。
8年で一頭地にビル、とは優秀すぎるビジネスウーマン 🤓
このカンボン通りのブティックには、サロン、アトリエも作られました。そう! あのメディアでもよく見る大きな螺旋階段のある、あのカンボンのアトリエです。今も変わらず残り続けているのですね 💗
現代でもなお、世界のセレブや大女優たちは、ここのアトリエにオートクチュールの何百万もの洋服を作りにやってきます。
▶︎▶︎よみもの;パリ本店で 唯一、大ふざけが許されるCHANELのアトリエモデル
↓字幕設定で日本語でます!
洋服だけじゃない!香りで女心をつかむココシャネル
小さな帽子店から始まりすっかり世にココの存在が知られるようになると、洋服だけでなく シャネル初のフレグランス、香水も発表することに!
そうです。あのマリリンモンローの「ベッドで まとってるのはナンバー5ですが、なにか?」のあの香水です。
ガブリエル シャネルと天才と呼ばれた調香師エルネスト ボーの出会いから生まれました。
当時の女性にしてみれば、「シャネル N°5」は、調香、ネーミング、ボトルデザイン、その全てが既成の概念をひっくり返すほどのパンチがあったそうです。
「女性そのものを感じさせる、女性のための香り」
そのように定評をもつようになった香水。もうこれだけで「ひとつ持っておくと運気が絶対上がるんじゃないか」と安直な私は思わざるをえません。
▶︎よみもの;シャネルの香水 人気おすすめ12選 定番から人気商品まで
自ら広告に登場するほど思い入れのあるナンバー5。
「科学的にブレンドした香水」「つけているうちに微妙に変わっていく複雑な香り」というアイデアにとりつかれたシャネル。そしてそれをボーに依頼しながら、なんども試作を重ね理想の香りを作ろうとします。
そのココシャネルの姿が描かれている映画『シャネル&ストラヴィンスキー』はとても面白いので必見です。
▶︎よみもの;映画『シャネル&ストラヴィンスキー』で着こなしを盗んじゃおう!
そして香水だけではなく 1924年には初のメイクアップ商品を発表。
続いて 1927年に初のスキンケア・ラインも発表。
(メイクとかスキンケアとかズボラで使わないので知識なさすぎで・・ここはすっ飛ばします 😊)
1926、ブラック概念を覆したココシャネル
そして、忘れてはならないココ・シャネルの代表作は・・
「リトルブラックドレス」
当時は喪服の色、悲しみの色だった「黒」。その喪服の色であるネガティブなカラー・ブラックを単品使いし、装飾も取っ払って、フィットしやすくシンプルなデザインのワンピースを仕上げました。
女性らしい曲線を施されたシンプルな黒いドレスの誕生です。
このブラックドレスが、1926年 初めてVOGUEに発表され、あっという間に女性たちや芸能の世界でトレンド入り!
ブラックは汚れが目立ちにくいうえ、どんなアクセサリーやバッグやにも合わせやすいカラーだったので、女性たちの心を虜にして、今も世界中の女性に愛されています。
ココの作る作品は「リトル・ブラック・ドレス(LBD)」とも呼ばれ、他のブランドもこれを真似て、ブラックファッションをこぞって出すようになりました。
誰がきても、しっくりと品よく見えるブラックというカラー。実はココ・シャネルが女性の衣類として根付かせてくれたものでした。
ココシャネルが考案した「リトル ブラックドレス」は、今でも毎シーズン、コレクションに登場します!
▶︎よみもの;ブラックは悲しみの色?ココシャネル時代の女たち
1931 ココシャネル、ハリウッド進出
1931年2月、ガブリエル シャネルは、サミュエル ゴールドウィン(アメリカ人 映画プロデューサー)のリクエストにkたえ、ハリウッドに向けて新しい世界を開拓します。
当時、ユナイテッド アーティスツ スタジオで活躍していた女優たちの衣装や私服をコーディネートすることになりました。
ココシャネルは『今宵ひととき』(1931年)と『仰言ひましたわネ』(1932年)の衣装デザインも担当
このあたりのココの活躍については改めてページを作りたいと思います
ここではサラッと・・。
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クチュール ハウスを閉店させたココシャネル
ハリウッドの進出も成し遂げて8年が経った1939年、第二次世界大戦が始まります。
ビジネスの女王・ココが運営するシャネルも、他のブランドと同じく大きな影響を受け、クチュール メゾンをやむをえず閉店することに。
その時カンボン通りにあった5つのブティックのうち、あの一番初めに構えた思い入れの深い「カンボン 31番地」だけは営業を続けます。そこでは香水とアクセサリーを販売しました
物資の不足する世の中で、アメリカ兵たちはカンボン通り31番地のCHANELのブティックに押し寄せ、祖国で帰りを待っている妻やフィアンセに、あの「N°5」を持ち帰ったそうです
第二次世界大戦中のパリの解放の頃の写真。香水を愛する人に持ち帰りたいとの想いを秘めて、兵隊たちはシャネル ブティック前に行列を作ったんですね
戦争中も細々と「カンボン 31番地」だけは守り続けていた、そう思うとますますあのブティックの存在価値が貴重なものだと感じます 😌
1954 ココシャネルのカムバック!
みなさん、ここからが本当のビジネスウーマン、ココの恐ろしさが発揮されます。初めに一等地カンボンにブティックを構えたのは、言っても35歳です。まだ体力もあり意気揚々とした若き経営者だったころ。
ですが世界大戦後にクチュール メゾンの再開を決意して「もう一度ファッション業界にカムバックしよう!」と考えたころというのは、すでにココ様 71歳!!
いや、ほんと歴史に名を残す女性は、普通の生き方でないのはよく分かります. 😏 女の人生は「花の如し」なんてウソですね。女性はもっともっと長く人生を謳歌できるんだ、と勇気がもらえます。
このとき開催したファッションショーはアメリカのメディアから高く評価されたそうです。コレクションに登場した最初のルックは、数字の「5」をあしらった作品というのですから、戦争中にも営業を続け自身を支えた香水「ナンバー5」には本当に思い入れが強かったのでしょうね。
(余談ですが、当店でもこの「5」がモチーフとして入っているジャケットは、シャネルコレクターの間でものすごく人気があります。例えば こういう作品ですね →
シャネルジャケット with 「5」)
1955 伝説のチェーン・マトラッセ 「2.55」の誕生
そして 1955年、ガブリエル シャネルは今では全世界の女性の憧れであるあのマトラッセバッグを発表します。
ゴールドのチェーンをあしらったキルティング バッグ。どっから見てもシャネルというものですね。
このバッグは誕生した年にちなみ「2.55」と名付けられました。
「あのチェーンストラップが肩にくいこむのよ」という古ぼけた私の意見はさておき、このチェーンストラップが女性が両手を自由に使うことを可能にした事実は否めません。
71歳でカムバックした翌年、この年齢にして あの世界的に有名なマトラッセ2.55を世に出しちゃうのですから、もうノーベル賞あげてください。
そして 余談ですが、、
「模倣されてこそ一流よ」とココは当時言っていたそうですが、それにしても今となってはあまりにフェイクが多すぎて、そんなことも言ってられないのでワナにハマらないようにしてください。😫 ↓
▶︎よみもの;CHANELを買うならフェイクだけは避けたい!ここに注意しよう
▶︎よみもの;シャネル マトラッセ プロが教える選び方 (その1 :素材編)
▶︎よみもの;シャネル マトラッセ プロが教える失敗しない選び方 (その2 :色カラー)
1956 誕生!ココ・シャネルといえばツイードのスーツ
マトラッセ2.55を誕生させた翌年には、ココシャネルはシャネルの主力作品となる ツイードのスーツをコレクションで発表します。
インスピレーション源になったのは、当時、イギリス一の資産家といわれた貴族、ウエストミンスター公爵が着用していたツイードのジャケットです。
1925年から1930年の間、恋人であったウエストミンスター公から、ゴルフや乗馬を楽しむときに借りたツイードのジャケット。なんとこれが世界中の女性が憧れる洋服のきっかけとなったのでした。
忘れてはならないのが、このときココシャネルは72歳です!😱
「シャネルのスーツは、女性が自由に活動するために生まれたの」とガブリエル・シャネルが語っているとおり、着心地がよく動きやすい洋服として世の女性を虜にしていきます。
「活動的な女性の気持ちは、私にもよくわかる。だからたとえ車を運転しても、女性らしさを損なわない服を作りたい」
そう語っていたココシャネルのシャネルスーツは、デイタイムにもイブニングにも対応した、華やかさと機能性の両方を兼ね備えていました。
そして、シャネルの象徴ともなるツイードジャケットも手がけるようになり、まるで第二の肌であるかのように作品を進化させながら、その精度を高めていきました。
シャネルのジャケットやスーツは、ココ・シャネルの代表作となっていきます。
最初は、アメリカで大流行。そして、徐々にセレブの間でも需要が高まり、オードリー・ヘップバーン、グレース・ケリー、マリリン・モンローといったセレブ達に愛用されました。
フランス女優のロミーシュナイダー↓
ココのタバコの灰が・・!😏
なかでもケネディ大統領の妻ジャックリーン・ケネディが大統領が暗殺された日に着ていたことでも知られているのがシャネルのスーツ。歴史の大きなターニングポイントでもシャネルの洋服が登場します。
「アメリカを変えてしまった瞬間」
として雑誌TIMEの表紙にも登場
こういったセレブたちに愛されたデザインは至ってシンプル!最近のシャネルのアパレルでこそ色んなデザインが並びますが、やっぱり永く愛されるのは「シンプル・定番・基本ライン」の作品です。
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▶︎よみもの;シャネル ジャケットをアラフィフ・アラフォーこそ着るとお得な理由
その後、ガブリエルの受け継いだカール・ラガーフェルドはこう語っています。
「男性のジャケットをヒントにしてシャネルジャケット作ったマドモアゼル・シャネルは、存在しなかった服を作ったのです。これは、まさに忘れられることのない功績です。そして、ファッションには決して廃れることのないアイテムがあります。それは・・
ジーンズ、白いシャツ、そしてシャネルのジャケットなのです。
1971 ココ・シャネルの死因の謎
モードの女帝として君臨したココ・シャネルは「仕事をしないと退屈」ともらしていたそうです。パリのホテル・リッツを住まいとし、仕事をこなす日々を送っていたココは、亡くなる直前まで、次のコレクションのための仕事をしていました。
巨万の富を得ていたココ・シャネルの人生には、お金目当てで近づいてくる人間もたくさんいました。ですが、一方で、晩年はゆったりと心を許せる友人と食事を楽しんだりと穏やかに過ごしていたようです。
しかし、大物にはつきものの違う説もあります。
穏やかどころか、晩年の彼女は仕事のプレッシャーがあり、不安症や不眠症に陥っていたという説も。。それを改善しようと医者から一日1本、モルヒネの注射を打つように支持されていた程だったそうです。
最後は手が震えてうまく打てずに、自分の死を悟り始めた彼女は「ほら、、人って、こんなふうにして死ぬのね」と、そばにいたメイドに語ったとの逸話も。
いずれにしても、ココシャネルはホテルリッツで最後を迎えることとなります。1971年11月10日、享年87歳。
生前、彼女は「日曜日は嫌い・・・だってだれも働かないから」と言っていたそうですが、彼女が亡くなったのも、まさにその日曜日でした。
常に女性の美しいスタイルを想像して洋服を紡ぎ、その人らしいエレガントさを引き出す。このことに徹底し生きた人生に幕を閉じます。
彼女の葬儀では、最前列にシャネルスーツを着たモデルたちが並びました。
ココは生前、「ローザンヌで埋葬してほしい」と望んでいたのですが、これは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツに接近したことを責められたので、フランスではなく疎開生活を送ったスイスのローザンヌに想いを馳せていたからだと伝えられています。
バリバリと働いて名声を勝ち取ったフランスの地でなく、疎開していた場所を永遠の住処に選んだというのは、考え深いものがあります。
ココシャネルの生涯「文字より動画で!」という方はこちら
もっと当時の雰囲気を動画でも知りたいな、という方はぜひこちらの動画を!
ココの歴史を簡潔にまとめたシャネル公式の動画です
↓字幕設定で日本語でます!
↑ 第5章 Coco – Inside CHANEL
↑ 第6章 Mademoiselle – Inside CHANEL
↑ 第7章 Gabrielle Chanel – Inside CHANEL
まとめ:ココシャネルの功績
現在のファッションの基礎的な部分を作りだしたガブリエル・シャネル、その偉大さが歴史の功績からも感じ取れますね。
今やファッション界のトップブランドとなった「 CHANEL」。その出発点は、ある起業家精神をもったひとりの女性が始めた小さな帽子店でした。
そして、その女性のポリシーを一貫して守り続け、今日もなお、女性たちの支持を集め続けている「CHANEL」
これからもブランド界の先頭に立って、女性が美しくあり続ける世界を牽引していく存在であって欲しいですね。
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